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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 7

 それは、岡崎幸恵にとって、神に与えられたチャンスだった。
 岡崎幸恵、旧姓中村幸恵は、ごく平凡な人生を送ってきた。父親の仕事の都合で、何回もの引越しを経験したけれど、友達にも恵まれ、なんの不満も疑問もない人生だった。
 正月には神社へ初詣に行き、クリスマスにはツリーを飾ってサンタクロースを心待ちにし、祖父母の命日には家の仏壇を拝むというように、ごく普通の日本人的な宗教観を持って育った。
 結婚してからもそれは同じで、彼女の夫の岡崎英明も、神様に関しては幸恵と似たり寄ったりの考えだった。
 そんな彼女が変わったのは、結婚して三年目、ようやく授かった子供を死産したときだった。
 待ちに待っていた子供だっただけに、幸恵の落胆は大きかった。よその子供たちは毎日元気に生まれてくるというのに、なぜ自分の子供は死ななければならなかったのか。大切に育てるはずだった。その子のために、あらゆる機会を与えてあげるつもりだった。なのに、なぜ?
 外出すると、元気に走り回る子供に傷つき、母の腕の中で満足げに眠る赤ん坊の姿に傷つき、大きなお腹を抱えて幸せそうに歩く妊婦に傷つけられた。
 どうしてみんな幸せそうなの? あたしはこんなに不幸なのに。
 やがて幸恵は外へ出ようとしなくなった。一日中カーテンを引いた薄暗い部屋で、生まれてくる子供のために用意していた揺りかごの横にぼんやり座りながら、幸恵は答えの出ない疑問をいつまでも考え続けていた。
 そんな時、彼らは来た。
 最初は、面白いビデオがあるから見にきませんか、という軽い誘いだった。家で一人きりで死んだ子供のことを考えているのも辛くなってきたので、幸恵はその誘いに応じた。それが始まりだった。
 目から鱗が落ちる思いだった。それほど彼らのビデオや話は論理的であり、感動的ですらあった。それに、彼らはみんな真剣で優しく、親切だった。
 幸恵は彼らの集まりに足繁く通い、ついには合宿にまで参加するようになった。合宿から帰ってきたときは、立派に信者と呼ばれる人間になっていた。身も心もメシア様に捧げる覚悟ができていた。
 その頃には、さすがに夫も異常に気づいていた。最初は宗教関係だとは知らなかったから、彼はむしろ幸恵がその集まりに夢中になるのを喜んでいた。死んだ子を忘れるのに、いい気晴らしになると思っていたのだ。
 幸恵はひっきりなしに原罪や、世界の終末や、真のメシアについて語り、英明にも入信を迫った。英明は、そんな話は馬鹿馬鹿しいと断固退けた。二人の間には結婚以降初めてギスギスした空気が漂った。
 幸恵は、夫に不満だった。どうして彼は、このような素晴らしい教えを理解してくれないのだろう。私の信仰心が足りなくて、人の心を動かすことができないのかしら。彼女は、真剣に悩んだ。
 だが、その答えはメシア様があっさりと教えてくれた。そもそも結婚したことが間違いであったのだ、と。
 メシア様の教えでは、メシア様が決めた相手以外と結婚してはいけないのだ。そうでないと堕落した子供が生まれてしまう。堕落した子供は罪であり、世界を滅ぼすもとなのだ。
 幸恵に堕落した子供を産まそうとし、なおかつその子供を死なせて彼女に二重の苦悩を負わせた岡崎英明という男は悪魔の使いなのだ。メシア様の教えでは、そういうことになるのだった。
 入信前にしてしまったこととはいえ、幸恵は恐れおののいた。このように悪魔に身体を汚されてしまった自分は、地獄に落ちるのではないだろうか。
 しかし、真の仲間たちは優しかった。彼らは不安で泣き出す幸恵を慰め、彼女に献身を迫った。献身して修行に励み、きれいな身体になってメシア様に真の夫と結婚させてもらえばよいと。
 幸恵は、一も二もなくその話に飛び付いた。悪魔とは、これ以上一日たりとも同じ屋根の下で暮らせない。彼女は離婚届に判を押し、それをテーブルの上に置くと、身の回りのものを持って彼らの言うところの『真のホーム』に逃げ込んだ。
 それからは厳しい修行の毎日だったが、幸恵の心は幸せで満たされていた。雨の日も、風の日も、街頭で通行人に祝福を施させてもらったり、戸別訪問をして祝福の瓶を売ったりした。食事は質素で睡眠時間も足りなかったが、来世の保証と心の平安は得られたのだった。

 今夜、こうして谷口にばったり会ったのも、神様の思し召しに違いない。幸恵は、そう確信していた。
 高校時代の彼は、自分の周りのすべてのものに倦み疲れたような表情をしていた。彼は優秀な頭脳も、端麗な顔も、慕ってくれる友人たちもいたのに、一番大切なことに気づいていなかった。
 もっとも、それは私も同じだったけど。
 幸恵は谷口と話しながら、ふと思った。私たちのいた小さな世界。そこではメシア様の教えも、メシア様にすべてを捧げることで得られたこの満ち足りた気持ちも存在していなかった。
 それでもあの頃は幸せだった、と考えかけて、幸恵は慌ててその気持ちを打ち消した。いけない。こんな邪念がわくようでは、まだまだ修行が足りない。
 幸恵は、谷口の魅力的な笑顔に微笑を返した。
 もう大丈夫。これからは私が、私たちがあなたに人生で本当に大切なこと、生きる意味についてわかりやすく教えてあげるわね。そして共に修行に励みましょう。敬愛するメシア様のために!
 さっき、お手洗いに行くといって席をはずしたときに電話を入れておいたので、そろそろ仲間たちが来る頃だった。こういうことは、一人よりも大勢で教えてあげるほうが効果があるのだ。
「そろそろ場所を変えないか?」
 コーヒーを飲み終えた谷口が言った。
 幸恵は、ちらりとファミレスの入り口のほうを見た。ガラスのドア越しに、愛しい仲間たちの姿が見えた。
「そうね。谷口くん、素敵なところに連れて行ってあげるわ」
 幸恵は、喜々として席を立った。



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